ポルテ―ラのサンバ・エンへド
1974年、ポルテ―ラ
1973年、ポルテ―ラ
1972年、ポルテ―ラ
1971年、ポルテ―ラ
1970年、ポルテ―ラ
1969年、ポルテ―ラ
1968年、ポルテ―ラ
1968年、ポルテ―ラ(画像音市立博物館)
-
1974年、ポルテ―ラ
1974年のリオの1º Grupo(現在のエスペシアル)のディスフィーレには、10エスコーラが参加しました。
その時、リオの地下鉄建設を始めていたので、今までディスフィーレをしていたプレジデンテ・ヴァルガス通りを立入禁止にしました。そのため、エスコーラ・デ・サンバのディスフィーレをセントロ区のプレジデンテ・アントーニオ・カルロス通りに移動しました。
この年もAESEG(リオサンバ協会)とTop-Tape録音会社がサンバ・エンヘードを録音しました。 レコードには全部のエスコーラが録音し、六ページのディスクジャケットで発売されました。
ジャケットの写真はエスコーラ・デ・サンバと、ディスフィーレの時の道路のデコレーション、エスコーラの旗でした。
そして、エスコーラの情報も載せました。
住所、設立の日、エンサイオの場所、何年に優勝をしたか、ポルトガル語と英語で記載されました。
レコードには、ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、エン・シーマ・ダ・オーラ、インペラトリス・レオポウジネンセ、ヴィラ・イザベウ、ベイジャ・フローとサウン・カールロス(現在のエスターシオ・デ・サー)が録音しました。
ポルテ―ラのサンバ・エンヘードは「ピシンギーニャの良い世界」でした。レコードのサイドA、録音順は1番目でした。
サンバ・エンヘードの作曲家はジャイール・アモリンとエヴァウド・ゴウヴェーヤで、プシャドールはシウヴィーニョ・ド・パンデイロでした。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは2位でした。
パレードは2月24日、 プレジデンテ・アントーニオ・カルロス通りで行われました。
(リライト:小宮)
-
1973年、ポルテ―ラ
1973年のリオの1º Grupoのディスフィーレには、10エスコーラが参加しました。前年と比べて2エスコーラ減ったのは、リオ市の予算の都合でした。 この年もAESEG(リオサンバ協会)とTop-Tape録音会社がサンバ・エンヘードを録音しました。 レコードには全部のエスコーラが録音し、歌詞や写真の掲載された六ページのディスクジャケットで発売されました。 表ジャケットの写真はライトデコレーションされたカンデラーリア教会でした。 余談ですが、カンデラーリア教会は、キリストのお祭りではないサンバ・カーニバルに参加したくありませんでした。そのためリオ市に、教会をデコレーションで隠すように言いました。 レコードに話を戻します。レコードには、ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、エン・シーマ・ダ・オーラ、インペラトリス・レオポウジネンセ、ヴィラ・イザベウ、トゥピ―・デ・ブラース・デ・ピーナ、ウニードス・ド・ジャカレジーニョが録音しました。 ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは4位でした。 パレードは3月4日、 カンデラーリア教会の前で行われました。 レコード会社:AESEG(リオサンバ協会)とTop-Tape。(リライト:小宮)
-
1972年、ポルテ―ラ
1972年のポルテーラのエンヘードは『イル―・アイェー、命の大地』でした。
アフリカから連れてこられた奴隷が、自分の故郷の良い思い出を懐かしんでいるのを表現したディスフィーレでした。
この年のサンバ・エンヘードの作曲家はカバ―ナとノリヴァゥ・へイスで、プシャドールはシウヴィーニョでした。
この年、AESEG(リオサンバ協会)がレコードの録音の為に、もう一回Top-Tape録音会社と契約を結びました。
1972年は、1º Grupoに2つのエスコーラが増え、リオのディスフィーレに12エスコーラが参加しました。レコードには全部のエスコーラが録音し、6ページのジャケットアルバムで発売されました。
ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・サウン・カルロス(今はエスターシオ・デ・サー)、インペラトリス・レオポウジネンセ、ヴィラ・イザベウ、インペーリオ・ダ・チジュカ、ウニ―ドス・デ・パドレ・ミゲウ、ウニ―ドス・デ・ルーカス、エン・シーマ・ダ・オーラでした。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは3位でした。
パレードは2月13日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社:AESEG(リオサンバ協会)とTop-Tape。
(リライト:小宮)
-
1971年、ポルテ―ラ
1971年のポルテーラのエンヘードは『ラパ区の三つの時代”』でした。
リオ市のラパ区の歴史を三つの時代に分けて表現したディスフィーレでした。
ラパ区は19世紀末から20世紀にかけて、大人の遊び場所、社交場でした。
夜は、居酒屋や風俗、ダンスクラブなどが営業していて、多くの音楽家も仕事に出かけていました。
この年のサンバ・エンヘードの作曲家は、アリー・ド・カヴァーコとフーンベンスで、プシャドールはシウヴィーニョでした。
1971年、サンバ・エンヘードのレコードについて珍しい事が起きました。
AESEG(リオサンバ協会)がTop-Tape録音会社と契約を結び、エスコーラのサンバ・エンヘードを録音して、レコードの販売を始めました。
タイトルは『Samba-de-Enredo das Escolas de Samba、1º Grupo、Gravação original』です。
しかし発売後まもなく、サルゲイロが自分のサンバエンヘードについて、別の録音会社と契約を結んでしまいました。
それにより、1971年のサンバ・エンヘードのレコードが販売中止となり、AESEGがTop-Tape録音会社との契約を解除しました。レコードは店頭から工場へ戻されてしまいました。
しかし、すぐにサルゲイロが入っていないレコードを作りなおして、また販売を再開しました。
新しい、サルゲイロが入っていないレコードには、各エスコーラのバテリアの演奏も録音しました。
ですから、1971年のサンバ・エンヘードのレコードで、同じジャケットのものでも、二つのバージョンがあります。サルゲイロが入っているものと、サルゲイロが入っていないものです。
サルゲイロが入っているレコードは、とても珍しいです。
1971年のリオのディスフィーレに、10エスコーラが参加しました。
最初に発売されたレコードには全部のエスコーラが録音し、四ページのジャケットアルバムで出版されました。
ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・サウン・カルロス(今はエスターシオ・デ・サー)、インペラトリス・レオポウジネンセ、ヴィラ・イザベウ、インペーリオ・ダ・チジュカ、ウニ―ドス・デ・パドレ・ミゲウでした。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは2位でした。
パレードは2月21日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社:AESEG(リオサンバ協会)。
(リライト:小宮)
-
1970年、ポルテ―ラ
1970年のポルテーラのエンヘードは『アマゾンの伝説とミステリー』でした。
アマゾンの民俗学と伝説の話でした。
サンバ・エンヘードの作曲家はカトーニ、ジャボローとヴァウテニールで、プシャドールはシウヴィーニョでした。
1968年と1969年のサンバ・エンヘードのレコードは、AESEG(リオサンバ協会)がスポンサーになりませんでした。
1970年からAESEG(リオサンバ協会)が、サンバ・エンヘードのレコードのスポンサーとプロデューサーになりました。そして、カラヴェーレ録音会社と契約を結び、初めてオフィシャルなレコードが作られることになりました。
レコードのタイトルも変わりました。『Samba-de-Enredo das Escolas de Samba、ao vivo、1º Grupo』というタイトルを付けました。「1º Grupo」は現在のGrupo Especialです。
更に、AESEGとカラヴェーレ録音会社は、「2º Grupo」のレコードも録音しました(現在のシリーズA)。
DiscNews録音会社は1968年に引き続き、『フェスティバル・デ・サンバ』のレコードを録音して発売しましたが(1969年は出していない)、サンバ・エンヘードのオフィシャルなレコードではありませんでした。内容は、1968年のものとは違い、各エスコーラのバテリアの録音ではなく、 全曲同じ人が歌い、同じバンドが演奏するというものでした。ちなみに、DiscNews録音会社のこのシリーズは1974年まで発売されました。
1970年のリオのディスフィーレに10エスコーラが参加しました。
この年のサンバ・エンヘードのレコードの録音には全部のエスコーラが参加しました。
ポルテーラ、マンゲイラ、ヴィラ・イザベウ、サルゲイロ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・サウン・カルロス(今はエスターシオ・デ・サー)、ウニ―ドス・ド・ジャカレジーニョ、インペラトリス・レオポウジネンセ、サンタ・クルースです。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは優勝でした(19回目)。
パレードは2月8日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社:カラヴェーレ、録音ライブ。
(リライト:小宮)
-
1969年、ポルテ―ラ
1969年のポルテーラのエンヘードは『13隻のカラヴェル船』でした。
16世紀にポルトガルの13隻のカラヴェル船によって、ブラジルが発見されたという内容のディスフィーレでした。
サンバ・エンヘードの作曲家はアリー・ド・カヴァーコとフーンベンスで、プシャドールはシウヴィーニョでした。
1969年に別の録音会社からサンバ・エンヘードのライブ録音レコードが発売されました、Cid Discosという録音会社でした。もちろん、エスコーラ・デ・サンバによる演奏です。レコードのタイトルは『フェスティバル・デ・サンバ、第2』でした。
1969年のリオのディスフィーレに10エスコーラが参加し、レコードにはサルゲイロを除く、9エスコーラが録音しました。
ポルテーラ、マンゲイラ、ヴィラ・イザベウ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・ルカス、ウニードス・デ・サウン・カルロス(今はエスターシオ・デ・サー)、エン・シーマ・ダ・オーラ、インペラトリス・レオポウジネンセです。
レコードにはサンバ・エンヘードの他に、それぞれのバテリアの演奏も録音されました。
サルゲイロは別のレコードに録音しました。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは3位でした。
パレードは2月16日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社: Cid Discos、録音ライブ。
(リライト:小宮)
-
1968年、ポルテ―ラ
1968年『フェスティバル・デ・サンバ』のレコードです。
DiscNewsという録音会社が、画像音市立博物館の録音した音源を使い、著作権料を支払って『フェスティバル・デ・サンバ』というレコードを作りました。
1968年のデスフィーレには10エスコーラが参加しましたが、『フェスティバル・デ・サンバ』というサンバ・エンヘード集には7エスコーラ分しか入っていません。7エスコーラの分だけ著作権料を支払ったからです。
なぜ7エスコーラだけなのか、理由は想像は出来ますが、正確な記録は残っていません。
この録音会社は、画像音市立博物館のレコードと全く同じものを作りたくなかったので、ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、ヴィラ・イザベウ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・ルカス(7エスコーラ)のサンバ・エンヘードの他に、それぞれのバテリアの演奏も録音しました。
デスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは4位でした。
パレードは2月25日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社: DiscNews、録音ライブ。
(リライト:小宮)
-
1968年、ポルテ―ラ(画像音市立博物館)
1968年のポルテーラのエンヘードは『イペーの木』で、サンバ・エンヘードの作曲家はカバ―ナです。
プシャドールはカトーネとマニーニョでした。その三人がポルテ―ラの作曲家アーラのメンバーでした。 (『イペーの木』は、ブラジルの有名なロマンスの小説です。小説家はジョゼ―・デ・アレンカールで、この本は1881年に出版されました。)
この時、初めて画像音市立博物館が、各エスコーラのサンバ・エンヘードを集めて録音しました。
画像音市立博物館は、ポルトガル語では『Museu da Imagem e do Som』と言います。日本語でちょうど良い言葉がありませんでしたので、画像音博物館は直訳です。リオ市立で、動画や画像、音源等を保管している博物館です。
この博物館が行なったサンバ・エンヘードの録音は、『10の偉大なエスコーラが後世の為に1968年のサンバを歌います』 というタイトルで発売され、今でいうところのグループ・エスペシアルのエスコーラが参加しました。
これ以前はサンバ・エンヘード集といった形態のレコードではなく、エスコーラや作曲家のレコードに録音されていました。
1968年のディスフィーレには、10エスコーラが参加し、録音にもその10エスコーラが参加しました。
ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、ヴィラ・イザベウ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・ルカス、ウニードス・デ・サウン・カルロス(今はエスターシオ・デ・サー)、インデペンデンテス・ド・レブロン(今はインデペンデンテス・デ・コルドヴィウ)、インペーリオ・ダ・チジュカです。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは4位でした。
パレードは2月25日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社: 画像音市立博物館、録音ライブ。
(リライト:小宮)
1974年、ポルテ―ラ
1973年、ポルテ―ラ
1972年、ポルテ―ラ
1971年、ポルテ―ラ
1970年、ポルテ―ラ
1969年、ポルテ―ラ
1968年、ポルテ―ラ
1968年、ポルテ―ラ(画像音市立博物館)
1974年、ポルテ―ラ
1974年のリオの1º Grupo(現在のエスペシアル)のディスフィーレには、10エスコーラが参加しました。
その時、リオの地下鉄建設を始めていたので、今までディスフィーレをしていたプレジデンテ・ヴァルガス通りを立入禁止にしました。そのため、エスコーラ・デ・サンバのディスフィーレをセントロ区のプレジデンテ・アントーニオ・カルロス通りに移動しました。
この年もAESEG(リオサンバ協会)とTop-Tape録音会社がサンバ・エンヘードを録音しました。 レコードには全部のエスコーラが録音し、六ページのディスクジャケットで発売されました。
ジャケットの写真はエスコーラ・デ・サンバと、ディスフィーレの時の道路のデコレーション、エスコーラの旗でした。
そして、エスコーラの情報も載せました。
住所、設立の日、エンサイオの場所、何年に優勝をしたか、ポルトガル語と英語で記載されました。
レコードには、ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、エン・シーマ・ダ・オーラ、インペラトリス・レオポウジネンセ、ヴィラ・イザベウ、ベイジャ・フローとサウン・カールロス(現在のエスターシオ・デ・サー)が録音しました。
ポルテ―ラのサンバ・エンヘードは「ピシンギーニャの良い世界」でした。レコードのサイドA、録音順は1番目でした。
サンバ・エンヘードの作曲家はジャイール・アモリンとエヴァウド・ゴウヴェーヤで、プシャドールはシウヴィーニョ・ド・パンデイロでした。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは2位でした。
パレードは2月24日、 プレジデンテ・アントーニオ・カルロス通りで行われました。
(リライト:小宮)
1973年、ポルテ―ラ
1973年のリオの1º Grupoのディスフィーレには、10エスコーラが参加しました。前年と比べて2エスコーラ減ったのは、リオ市の予算の都合でした。 この年もAESEG(リオサンバ協会)とTop-Tape録音会社がサンバ・エンヘードを録音しました。 レコードには全部のエスコーラが録音し、歌詞や写真の掲載された六ページのディスクジャケットで発売されました。 表ジャケットの写真はライトデコレーションされたカンデラーリア教会でした。 余談ですが、カンデラーリア教会は、キリストのお祭りではないサンバ・カーニバルに参加したくありませんでした。そのためリオ市に、教会をデコレーションで隠すように言いました。 レコードに話を戻します。レコードには、ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、エン・シーマ・ダ・オーラ、インペラトリス・レオポウジネンセ、ヴィラ・イザベウ、トゥピ―・デ・ブラース・デ・ピーナ、ウニードス・ド・ジャカレジーニョが録音しました。 ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは4位でした。 パレードは3月4日、 カンデラーリア教会の前で行われました。 レコード会社:AESEG(リオサンバ協会)とTop-Tape。(リライト:小宮)
1972年、ポルテ―ラ
1972年のポルテーラのエンヘードは『イル―・アイェー、命の大地』でした。
アフリカから連れてこられた奴隷が、自分の故郷の良い思い出を懐かしんでいるのを表現したディスフィーレでした。
この年のサンバ・エンヘードの作曲家はカバ―ナとノリヴァゥ・へイスで、プシャドールはシウヴィーニョでした。
この年、AESEG(リオサンバ協会)がレコードの録音の為に、もう一回Top-Tape録音会社と契約を結びました。
1972年は、1º Grupoに2つのエスコーラが増え、リオのディスフィーレに12エスコーラが参加しました。レコードには全部のエスコーラが録音し、6ページのジャケットアルバムで発売されました。
ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・サウン・カルロス(今はエスターシオ・デ・サー)、インペラトリス・レオポウジネンセ、ヴィラ・イザベウ、インペーリオ・ダ・チジュカ、ウニ―ドス・デ・パドレ・ミゲウ、ウニ―ドス・デ・ルーカス、エン・シーマ・ダ・オーラでした。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは3位でした。
パレードは2月13日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社:AESEG(リオサンバ協会)とTop-Tape。
(リライト:小宮)
1971年、ポルテ―ラ
1971年のポルテーラのエンヘードは『ラパ区の三つの時代”』でした。
リオ市のラパ区の歴史を三つの時代に分けて表現したディスフィーレでした。
ラパ区は19世紀末から20世紀にかけて、大人の遊び場所、社交場でした。
夜は、居酒屋や風俗、ダンスクラブなどが営業していて、多くの音楽家も仕事に出かけていました。
この年のサンバ・エンヘードの作曲家は、アリー・ド・カヴァーコとフーンベンスで、プシャドールはシウヴィーニョでした。
1971年、サンバ・エンヘードのレコードについて珍しい事が起きました。
AESEG(リオサンバ協会)がTop-Tape録音会社と契約を結び、エスコーラのサンバ・エンヘードを録音して、レコードの販売を始めました。
タイトルは『Samba-de-Enredo das Escolas de Samba、1º Grupo、Gravação original』です。
しかし発売後まもなく、サルゲイロが自分のサンバエンヘードについて、別の録音会社と契約を結んでしまいました。
それにより、1971年のサンバ・エンヘードのレコードが販売中止となり、AESEGがTop-Tape録音会社との契約を解除しました。レコードは店頭から工場へ戻されてしまいました。
しかし、すぐにサルゲイロが入っていないレコードを作りなおして、また販売を再開しました。
新しい、サルゲイロが入っていないレコードには、各エスコーラのバテリアの演奏も録音しました。
ですから、1971年のサンバ・エンヘードのレコードで、同じジャケットのものでも、二つのバージョンがあります。サルゲイロが入っているものと、サルゲイロが入っていないものです。
サルゲイロが入っているレコードは、とても珍しいです。
1971年のリオのディスフィーレに、10エスコーラが参加しました。
最初に発売されたレコードには全部のエスコーラが録音し、四ページのジャケットアルバムで出版されました。
ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・サウン・カルロス(今はエスターシオ・デ・サー)、インペラトリス・レオポウジネンセ、ヴィラ・イザベウ、インペーリオ・ダ・チジュカ、ウニ―ドス・デ・パドレ・ミゲウでした。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは2位でした。
パレードは2月21日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社:AESEG(リオサンバ協会)。
(リライト:小宮)
1970年、ポルテ―ラ
1970年のポルテーラのエンヘードは『アマゾンの伝説とミステリー』でした。
アマゾンの民俗学と伝説の話でした。
サンバ・エンヘードの作曲家はカトーニ、ジャボローとヴァウテニールで、プシャドールはシウヴィーニョでした。
1968年と1969年のサンバ・エンヘードのレコードは、AESEG(リオサンバ協会)がスポンサーになりませんでした。
1970年からAESEG(リオサンバ協会)が、サンバ・エンヘードのレコードのスポンサーとプロデューサーになりました。そして、カラヴェーレ録音会社と契約を結び、初めてオフィシャルなレコードが作られることになりました。
レコードのタイトルも変わりました。『Samba-de-Enredo das Escolas de Samba、ao vivo、1º Grupo』というタイトルを付けました。「1º Grupo」は現在のGrupo Especialです。
更に、AESEGとカラヴェーレ録音会社は、「2º Grupo」のレコードも録音しました(現在のシリーズA)。
DiscNews録音会社は1968年に引き続き、『フェスティバル・デ・サンバ』のレコードを録音して発売しましたが(1969年は出していない)、サンバ・エンヘードのオフィシャルなレコードではありませんでした。内容は、1968年のものとは違い、各エスコーラのバテリアの録音ではなく、 全曲同じ人が歌い、同じバンドが演奏するというものでした。ちなみに、DiscNews録音会社のこのシリーズは1974年まで発売されました。
1970年のリオのディスフィーレに10エスコーラが参加しました。
この年のサンバ・エンヘードのレコードの録音には全部のエスコーラが参加しました。
ポルテーラ、マンゲイラ、ヴィラ・イザベウ、サルゲイロ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・サウン・カルロス(今はエスターシオ・デ・サー)、ウニ―ドス・ド・ジャカレジーニョ、インペラトリス・レオポウジネンセ、サンタ・クルースです。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは優勝でした(19回目)。
パレードは2月8日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社:カラヴェーレ、録音ライブ。
(リライト:小宮)
1969年、ポルテ―ラ
1969年のポルテーラのエンヘードは『13隻のカラヴェル船』でした。
16世紀にポルトガルの13隻のカラヴェル船によって、ブラジルが発見されたという内容のディスフィーレでした。
サンバ・エンヘードの作曲家はアリー・ド・カヴァーコとフーンベンスで、プシャドールはシウヴィーニョでした。
1969年に別の録音会社からサンバ・エンヘードのライブ録音レコードが発売されました、Cid Discosという録音会社でした。もちろん、エスコーラ・デ・サンバによる演奏です。レコードのタイトルは『フェスティバル・デ・サンバ、第2』でした。
1969年のリオのディスフィーレに10エスコーラが参加し、レコードにはサルゲイロを除く、9エスコーラが録音しました。
ポルテーラ、マンゲイラ、ヴィラ・イザベウ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・ルカス、ウニードス・デ・サウン・カルロス(今はエスターシオ・デ・サー)、エン・シーマ・ダ・オーラ、インペラトリス・レオポウジネンセです。
レコードにはサンバ・エンヘードの他に、それぞれのバテリアの演奏も録音されました。
サルゲイロは別のレコードに録音しました。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは3位でした。
パレードは2月16日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社: Cid Discos、録音ライブ。
(リライト:小宮)
1968年、ポルテ―ラ
1968年『フェスティバル・デ・サンバ』のレコードです。
DiscNewsという録音会社が、画像音市立博物館の録音した音源を使い、著作権料を支払って『フェスティバル・デ・サンバ』というレコードを作りました。
1968年のデスフィーレには10エスコーラが参加しましたが、『フェスティバル・デ・サンバ』というサンバ・エンヘード集には7エスコーラ分しか入っていません。7エスコーラの分だけ著作権料を支払ったからです。
なぜ7エスコーラだけなのか、理由は想像は出来ますが、正確な記録は残っていません。
この録音会社は、画像音市立博物館のレコードと全く同じものを作りたくなかったので、ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、ヴィラ・イザベウ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・ルカス(7エスコーラ)のサンバ・エンヘードの他に、それぞれのバテリアの演奏も録音しました。
デスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは4位でした。
パレードは2月25日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社: DiscNews、録音ライブ。
(リライト:小宮)
1968年、ポルテ―ラ(画像音市立博物館)
1968年のポルテーラのエンヘードは『イペーの木』で、サンバ・エンヘードの作曲家はカバ―ナです。
プシャドールはカトーネとマニーニョでした。その三人がポルテ―ラの作曲家アーラのメンバーでした。 (『イペーの木』は、ブラジルの有名なロマンスの小説です。小説家はジョゼ―・デ・アレンカールで、この本は1881年に出版されました。)
この時、初めて画像音市立博物館が、各エスコーラのサンバ・エンヘードを集めて録音しました。
画像音市立博物館は、ポルトガル語では『Museu da Imagem e do Som』と言います。日本語でちょうど良い言葉がありませんでしたので、画像音博物館は直訳です。リオ市立で、動画や画像、音源等を保管している博物館です。
この博物館が行なったサンバ・エンヘードの録音は、『10の偉大なエスコーラが後世の為に1968年のサンバを歌います』 というタイトルで発売され、今でいうところのグループ・エスペシアルのエスコーラが参加しました。
これ以前はサンバ・エンヘード集といった形態のレコードではなく、エスコーラや作曲家のレコードに録音されていました。
1968年のディスフィーレには、10エスコーラが参加し、録音にもその10エスコーラが参加しました。
ポルテーラ、マンゲイラ、サルゲイロ、ヴィラ・イザベウ、モシダジ、インペーリオ・セハーノ、ウニードス・デ・ルカス、ウニードス・デ・サウン・カルロス(今はエスターシオ・デ・サー)、インデペンデンテス・ド・レブロン(今はインデペンデンテス・デ・コルドヴィウ)、インペーリオ・ダ・チジュカです。
ディスフィーレの結果ですが、ポルテ―ラは4位でした。
パレードは2月25日、 カンデラーリア教会の前で行われました。
レコード会社: 画像音市立博物館、録音ライブ。
(リライト:小宮)
