メストレ・ベチーニョ
メストレ・ベチーニョ
初めてポルテ―ラのメストレ・デ・バテリア
メストレ・ベチーニョ パート1
ポルテ―ラのメンバー達からメストレ・ベチーニョの事を聴いた事があります。歴史の中でメストレ・ベチーニョとポルテ―ラのバテリアは深く繋がります。
しかし、ポルテ―ラのメンバー達とバテリアメンバーは殆どメストレ・べチーニョの事を知りません。
例えば、彼はどこで生まれましたか?
いつからポルテ―ラに入りましたか?
初めてポルテ―ラでデスフィーレに参加たのは、いつですか?
オ・クルゼイロ雑誌1956年の写真
これからメストレ・ベチーニョの事を細かく話します。そしてポルテ―ラのバテリアの歴史も細かく伝えます:メストレとヂレトルと大事なメンバーの話をします。一緒に学びましょう!
このメストレ・ベチーニョの写真を1956年2月のオ・クルゼイロ雑誌を古本屋で見つけました。2014年でした。雑誌のページにメストレ・ベチーニョの記事は何も書いてない。
写真だけ乗せていました。
しかし、写真を見た時にやっぱり大事な事を見つけましたと僕が考えました。何故ですか?説明します。
雑誌を買って東京に戻ってメストレ・ベチーニョの写真をスキャナーしすぐポルテ―ラの歴史サイトに載せました。
5年前web中にメストレ・ベチーニョの写真は全然ありませんでした。
エス―コラ・デ・サンバの歴史の本にメストレ・ベチーニョの写真は1枚ありましたが小さいな写真なのでメストレ・ベチーニョの顔ははっきり分かりません。オ・クルゼイロ雑誌の写真はメストレ・ベチーニョの顔をちゃんと見られます。大事な写真見つけましたと思いました。
下右側にメストレ・ベチーニョです。エスコーラ・デ・サンバの歴史の本
そこで昔の雑誌をどんどん買っていった所、また別のメストレ・ベチーニョの写真を見つけました。
エス―コラ・デ・サンバの歴史の本にあるメストレ・ベチーニョの写真には何年に撮影したものか?情報を書いていませんでした。
しかし、一緒に写っているポルテーラのバテリアの写真を見比べた所、本の写真の年が分かりました。1957年でした。二つの写真を年代は近く、1956年と1957年でした。
両方の写真を見ながら色んな疑問を考えました:メストレ・ベチーニョはどこで生まれましたか?
どうポルテ―ラを会いましたか?
いつからメストレになりましたか?
サンバの歴史に新しい事を何を作りましたか?
これからシリーズでメストレ・ベチーニョの事を細かく説明します。この記事をポルトガル語でwww.portelaweb.orgに初めて載せてます。お楽しみに!
メストレ・ベチーニョ パート2
1911年べ―ロ・オリゾンテ市
ポルテーラのメストレ・デ・バテリア、べチーニョは1911年ミナス・ジェライス州べ―ロ・オリゾンテ市に生まれました。
その時代はべ―ロ・オリゾンテ市の都市部と農村部に大きな変化がありました。
べ―ロ・オリゾンテ市役所は貧しい家族を住む所から追放しました。
べチーニョの家族は農村部の貧困家庭でした。
なのでべチーニョの家族は引っ越しをするしかありません。
その時代ブラジルの首都はリオ・デ・ジャネイロでしたので、新しい仕事と良い生活の希望を胸にべチーニョの家族は全員リオ・デ・ジャネイロに行きました。1919年でした。ちょうど100年前、ベチーニョが8歳の時です。
べ―ロ・オリゾンテ市の農村地域から引っ越しした場所は、バーホス・フィリオ区です。その時代はバーホス・フィリオはまだ区ではなく、バーホス・フィリオ農場という名前で、地域の多くのが養豚場でした。
バーホス・フィリオ駅が1908年に設立され、その駅の回りにバーホス・フィリオ区が成長しました。
ベチーニョはまだ8歳でしたが、バーホス・フィリオ着いた時に仕事を探し始めました。
市民がカーニバルのパレードを見えます (カレータ雑誌, 1920年)
皆さん分かるかも知れないけど1917年初めてレコードでサンバを録音をしました。「Pelo telephone」の」サンバでした。作曲家がドンガでした。それとBloco Baianinhas de Oswaldo Cruz (バヤ二-ニャス・デ・オスヴァウド・クルスのブローコ)が1923年に生まれました。そのサンバの歴史で大切な時代にベチーニョがリオに到着しました。
1926年にベチーニョが15歳の時、紙切りの工場で働いてました。
カーニバル好きな友達が面白いブローコを紹介しました。そのブローコはいつもオスヷウド・クルース区でパレードをしました。ブローコの名前は Conjunto Carnavalesco Oswaldo Cruz (オスヷウド・クルース・カーニバル・バンド)でした。そのブローコの創設者はパウロ・ダ・ポルテーラとアントーニオ・カエターノとアントーニオ・フフィーノ。
とても面白く家族的なブローコですが、Conjunto Carnavalesco Oswaldo Cruz(昔のポルテ―ラの名前)はまだ小さいなブローコでした。
その時はまだエスコーラ・デ・サンバはありませんでしたので、カーニバルの時に貧しい人たちはブローコとコルダウン(シンプルなファンタジーアを使うブローコ)とコンフェチ・バートル(紙吹雪戦い祭)に参加をしました。
1926年からベチーニョがConjunto Carnavalesco Oswaldo Cruzに入ってそろそろポルテータのバテリアのメストレになります。続き。。。
1928年~1930年ポルテ―ラの音楽バンドです。左ポルテ―ラの創設者はアントーニオ・カエターノです。真ん中メンドンサ軍曹です。彼が軍隊の楽器をポルテ―ラの貸しました。この写真をポルテ―ラのカンデヤ書いた本に乗せてます。
メストレ・ベチーニョ パート3
写真:20年代のブローコ
1926年ベチーニョがConjunto Carnavalesco Oswaldo Cruz (オスヷウド・クルース・カーニバル・バンド)に入りました。パウロ・ダ・ポルテーラがベチーニョのお世話をしました。(その時はまだパウロは有名なサンビスタではありませんでした。)
Conjunto Carnavalesco Oswaldo Cruzは、いつもオスヴァウド・クルス区でパレードをしました。当時のリオのカーニバルは、グランデス・ソシエダデス(政治家批判)とハンショ(マルシーニャ)とコールソ(車パレード)が一番大事なカーニバルのグループでした。お金が無かった人達はカーニバルでは主にブローコとコルダウン(カーニバル・バンド)とククンビ―(民族グループ)で遊んでました。
1926年、ベチーニョはまだ15歳でした。楽器は全然叩いてなかったので、ファンタジアを着てでデスフィレに参加しました。
一番楽しかったはバイヤーナでデスフィレに参加をしたことです。その時代は年寄と若いバイヤーナ達がデスフィレ中を守る為に、ブローコで男子がバイヤーナの衣装を着ても大丈夫でした。
写真:30年代のバイヤーナ。真ん中に男子がいます
1928年、ベチーニョは17歳になりました。
ベチーニョはパウロ・ダ・ポルテーラから「カーニバル前の1月20日、エンジェ―ニョ・デ・デントロ区で初めてサンバ・コンテストを行う」という話を聞きました。そのコンテストはサンバを歌いながら楽器を叩くのみでディスフィレではありません。参加したサンバ・グループはオスヷウド・クルースとマンゲイラとエンバイシャダ・ド・エスターシオ。オスヷウド・クルースは2曲歌いました。作曲家はエイトール・ドス・プラゼーレスとアントーニオ・カエターノ。その時の優勝はエンバイシャダ・ド・エスターシオでした。
ベチーニョはパウロから聞いたコンテストの話に非常に興味を持ち、その後のカーニバルの為の準備を手伝いました。
1928年のカーニバルは2月18日~21日。その時、初めてConjunto Carnavalesco Oswaldo Cruz (オスヷウド・クルース・カーニバル・バンド)が新しい名前でデスフィレに参加をしました:Quem nos faz é o Capricho (意味;気まぐれで作りました)。カーニバルまで直前までベチーニョは頑張っていましたが親戚の中のケンカに巻き込まれ、包丁で刺されて入院してしまったためデスフィレ―に参加できませんでした。
1929年、ベチーニョは初めてサンバの楽器を触りました。
20年代末と現在のバテリアを比べたら全く異なります。サンバの楽器は殆ど手作りでした。大きなスルドは木製の樽で作って上に山羊の皮を針金と釘で取り付けます。小さなスルドは缶で作りました。
クイ―カも木製の樽で作って上に山羊の皮を被せました。当時のクイ―カはまだタラバルテを使わないで左手で持って低い音だけ出す楽器でした。カイシャとへピキありませんでした。木と缶と太いコイルを使ったへ―コ・へ―コはありました。タンボリンは木で四角の枠を作り、上に色んな動物の皮を使いました。丸い缶で作ったパンデイロと木の六画パンデイロもありました。丸いと四角のアドゥフェ(パンデイロのプラチネーラ無し)もありました。アゴゴは少なかったのですが、色んなガンザとアフォシェーとシェケレーありました。
これらの楽器をベチーニョが勉強し、叩きました。
メストレ・ベチーニョ パート4
アントーニオ・フフィーノとエイトール・ドス・プラゼーレスとマノエウ・バンバンバン
1928年のカーニバル後、マノエーウ・バンバンバン(Quem nos faz é o Caprichoのアルモニアのヂレトル)がベチーニョに楽器を叩く事を勧めました。(何年後ベチーニョが仕事の事故で右手の指を三本無くします)
1929年と1930年のカーニバル、ベチーニョが楽器のアーラ(まだバテリアの名前では無かった)でデスフィーレをしました。
1930年のカーニバル後、Quem nos faz e o Caprichoのメンバーであるエイトール・ドス・プラゼーレスがアントーニオ・フフィーノ(ポルテ―ラの創始者)のサンバの曲を盗作し、録音をしてレコード会社からお金を貰ったという話をベチーニョは耳にしました。
また、マノエーウ・バンバンバンがエイト―ロとフフィーノの問題を知って、友人だったフフィーノの盗作をしたエイトールを髭剃りで刺したという話も流れました。
この時代、エイトール・ドス・プラゼーレスは有名な作曲家で色んなサンバを作っていたので盗作や事件の話をベチーニョは信じられず、確認に行きました。
ベチーニョがフフィーノの所まで行くと、Quem nos Faz é o Capricho のヂレトルが集まって会議をしていました。
パウロ・ダ・ポルテーラは一連の問題に関してエイトールを守り、ブロコの役員と仲違いをし、結果、パウロとエイトールはブロコを休む事になりました。しかし、役員たちはパウロがブロコに戻らないとデスフィーレが上手く行かないと思い、議論を重ねました。
バンバンバンにとって、パウロはブロコには居て欲しかったのですが、エイトールはブロコに必要ではありません。議論ばかりの役員たちにバンバンバンは「行かない、行かない、皆さんは後ろ向きに考えますね。その考え方を辞めましょう!出来る!行きましょう!」と皆を励ました。
そしてブロコを新しい名前にすることを提案をしました。ブロコの役員たちはバンバンバンの提案を賛成し、ブロコの名前を決めました:Vae como Pode (昔の書き方はVaiでは無く、Vae)。
1931年~1935年のちのポルテ―ラがこの名前でデスフィーレをしました。アントーニオ・カエタノ(ポルテ―ラの創始者)がブロコの新しい旗を作りました。その旗は現在のポルテ―ラの旗と殆ど変わっていません。
1931年のカーニバルの記事でした
それらの会議の中で、ベチーニョは自分が楽器のアーラの世話係をする提案をしました。彼はパーカッションの経験は浅いですが、早く上手になっていたので新しいサンバ(サンバ・カリオカ)をちゃんと叩く事ができていました。また、ミナス州のサンバとカシャンブーとジョンゴとカンドンブレーの叩き方を混ぜて、綺麗な演奏を作りました。
1931年カーニバル後にパウロ・ダ・ポルテーラがブロコに戻りました。その時、ベチーニョの楽器の叩き方を気にしました。
1932年のカーニバルでは、初めてスポンサーがつきました。新聞会社でした。パウロ・ダ・ポルテーラとベチーニョとブロコの役員たちは、その変化はとっても大事な事だと考えました。頑張るしかない…Vae como Podeのメンバーは決めました!
つづく。。。
「Copyright © 簀戸マルセロ、ポルテ―ラのバテリアメンバーとコンスラド・ダ・ポルテーラ・ジャポンの会長とポルテ―ラ文化部のメンバとポルテ―ラウエーブのメンバー」