ポルテ―ラのエスタンダルテ・デ・オウロ賞
エスタンダルテ・デ・オウロ賞はオ・グローボ新聞の賞です。1972年始めました。
1974年、ベスト・メストレ・サラ
1974年、ベスト・アーラ
1973年、ベスト・パーソナリティ
1972年、ベスト・バテリア
-
1974年、ベスト・メストレ・サラ
1974年、ポルテ―ラがピシンギーニャ(ショーロの音楽家)のエンヘードでディスフィーレをしました。彼が生きている時代に、サンバは生まれました。とても大切な存在で、誰でも知っている音楽家なのに、1974年まで誰もエンヘードに取り上げませんでした。 このディスフィーレは、ポルテーラにとっても、サンバの歴史を取り上げたという意味でも、とても興味深く大事なディスフィーレだったので、ポルテ―ラはエスタンダルテ・デ・オウロ賞(リオのオ・グローボ新聞の賞)を2個貰いました。「ベスト・アーラ賞」と「ベスト・メストレ・サラ賞」でした。 今回は「ベスト・メストレ・サラ賞」についてお話しします。 1972年にポルテ―ラが新しいメストレ・サラを決めました。ニックネームはバギダーです。彼とポルタ・バンデイラのイレーネは、1972年~1976年の間、一緒に踊りました。 1974年のリオのディスフィーレの結果はポルテ―ラは2位でしたが、エスタンダルテ・デ・オウロ賞の審査員が、ディスフィーレに参加した10エスコーラの中から、ベスト・メストレ・サラをバギダーに決めました。 1976年のカーニバルの後、バギダーはポルテ―ラを辞めて別のエスコーラに行きました。 写真:バギダー(O Cruzeiro雑誌)。 音源:1974年のライブのサンバ・エンヘード "O Mundo Melhor de Pixinguinha"。 動画:1974年ポルテ―ラのディスフィーレ (Arquivo Nacional)。 (リライト:小宮) -
1974年、ベスト・アーラ
1974年は、エスタンダルテ・デ・オウロ賞が出来てから3年目でした。 この年は賞のカテゴリーが1個減り、12個になりました。 ポルテ―ラはこの年、エスタンダルテ・デ・オウロ賞を2個貰いました。 今回はその内の一つ、「ベスト・アーラ賞」についてお話しします。 ポルテ―ラのエンヘードはピシンギーニャでした。有名なショーロの音楽家です。 エンヘードの見せ方は三部構成になっていました。第一部は、サンバの歴史の始まりの話でした。 20世紀初頭は、サンバを演奏することが禁止されていました。 そのため、ベテランのバイアーナの家で、こっそりサンバとショーロのパーティーを行っていました。 1974年、ポルテ―ラのアーラ・デ・バイアーナが、そのベテランのバイアーナを讃えました。そして、カルナバレスコが伝統的なバイアーナのファンタジアを作りました。 白色のドレスを着て、頭に花のバスケットを被るというものでした。 ファンタジアには歴史的に深い意味がありましたから、バイアーナ達は喜び、ディスフィーレで張りきって踊りました。 その結果、ポルテ―ラのアーラ・デ・バイアーナがエスタンダルテ・デ・オウロ賞の「ベスト・アーラ賞」を貰いました。 写真:1974のアーラ・デ・バヤーナ(Rio, Samba e Carnaval雑誌)。 音源:1974年のライブのサンバ・エンヘード "O Mundo Melhor de Pixinguinha"。 動画:1974年ポルテ―ラのディスフィーレ (Arquivo Nacional)。 (リライト:小宮) -
1973年、ベスト・パーソナリティ
1973年に「エスタンダルテ・デ・オウロ賞」のカテゴリーは3個増え、全部で13個になりました。 この年、ポルテ―ラの女性がエスタンダルテ・デ・オウロ賞の「ベスト・パーソナリティ賞」を貰いました。沢山の有名なサンビスタの中から、彼女が選ばれたのでした。 その女性の名は、チア・ヴィセンチーナです。当時のポルテ―ラの会長のお姉さんです。彼女は、ポルテーラの歴史を支えてきた、とても有名なバイアーナでした。 パウリーニョ・ダ・ヴィオラの「パゴージ・ド・ヴァヴァ―」という曲の歌詞に、チア・ヴィセンチーナの美味しいフェイジャウンについて出てきます。 “Provei o famoso feijão da Vicentina, só quem é da Portela que sabe que a coisa é divina!”(ヴィセンチーナの有名なフェイジャウン。初めて食べた人は美味しいと言いますが、ポルテーラのメンバーは、皆それを知っています。) チア・ヴィセンチーナは、1914年にリオ市で生まれました。 ポルテ―ラのバハカウンで働き、ディスフィーレにはバイア―ナのアーラで参加しました。 1970年、ヴェーリャ・グアルダ・ダ・ポルテーラのコーラスに入りました。 1972年、ポルテ―ラが新しいクアドラ(現在のクアドラ)を建てましたが、ポルテーラのクアドラには、30人ほどが働く台所がありました。ポルテーラの活動に伴う食事の提供をするためです。 チア・ヴィセンチーナは、1972年から1986年までポルテ―ラの台所の責任者でした。 音源:1973年のライブのサンバ・エンヘード "Pasárgada, o amigo do rei"。 動画:1973年ポルテ―ラのディスフィーレ (Arquivo Nacional)。 (リライト:小宮) -
1972年、ベスト・バテリア
エスタンダルテ・デ・オウロ賞は、1972年に始まった『オ・グローボ新聞』の賞です。 賞の審査員は新聞記者と、選ばれたベテランのサンビスタです。 そして賞には、バテリア、サンバエンヘード、メストリ・サラ、ポルタ・バンデイラ、アーラ等々、全部で10個のカテゴリーがありました。 1972年のリオのディスフィーレ には、10エスコーラが参加しました。 エスタンダルテ・デ・オウロ賞の審査員が、1972年のベストバテリアはポルテ―ラであると決めました。 その時のポルテ―ラのメストレ・デ・バテリアはシンコでした。エスタンダルテ・デ・オウロ授賞式で、彼が賞を貰いました。 彼は1971年までウニ―ドス・デ・パドレ・ミゲーウのメストレ・デ・バテリアを務めていましたが、1972年にポルテ―ラでデビューしました。 その年のポルテーラのバテリアの人数は300人。ファンタジアの意味はアフリカの民族でした。 写真:1972のバテリアとバテリアのアレゴリア(O Cruzeiro雑誌)。 音源:1972年のライブのサンバ・エンヘード "Ilu Ayê, Terra da Vida"。 動画:1972年ポルテ―ラのディスフィーレ (Arquivo Nacional)。 (リライト:小宮)