1949年1月29日、パウロ・ダ・ポルテーラはサーカス・オリメシャに出向き、契約を交わしました。彼の収入源のひとつはサーカスで歌うことでした。
サーカス・オリメシャに到着したパウロは、ファンからサンバを歌うよう求められました。照れくさかったパウロは断りましたが、ファンがどうしてもと言うのでステージに入って歌いました。
翌朝、彼はベッドで息を引き取りました。サーカス・オリメシャのステージへの出演が、彼が人前で歌った最後の機会となりました。
誰もが知っているパウロ・ダ・ポルテーラのサーカスでの話です。
ここから、1940年代のポルテーラの歴史を調査した際に私が発見した、前代未聞の物語が始まります。私が発見したことは、誰にも語られていませんし、どんな本にも載っていません。
この物語に興味を持った私は、サーカス・オリメシャの所有者を調べ始めました。私は、オリメシャはイタリアかスペインの姓であると考えました。ブラジルには、サーカスのオーナーとして有名なイタリア系やスペイン系の家系がたくさんあるのです。
調べると、オリメシャ族はもともと、スペインに植民地化された国であるウルグアイ出身であることがわかりました。 空中ブランコ・アーティストとして活動を始め、後にサーカス・オリメシャを創設した最初のオリメシャは、カルロス・フランコ・オリメシャといいます。しかし、彼はウルグアイ人でもスペイン人でもありませんでした。おそらく京都生まれの日本人でしょう。
しかし、なぜ日本人がカルロス・フランコ・オリメシャという名前を持ったのでしょうか?
1817年頃、空中ブランコで有名な早竹虎吉は京都で生まれました。彼は曲芸師で、曲芸団を設立し、家族の一部とともにアメリカに移住しました。曲芸師としてさまざまなイベントで活躍した後、1868年に死去。後を継いだ息子は早竹虎吉を名乗りました。
息子はブラジルに行き、ブラジルのサーカスで活躍しました。その後、ウルグアイに移住し、ジュリア・ロッシ・オリメシャという女性と出会います。彼女と結婚し、カルロス・フランコ・オリメシャと名乗りました。ジュリアとの間には8人の子供(男7人、女1人)がいました。ウルグアイからブラジルに戻った虎吉一家は1901年にオリメシャ・サーカスを創設しました。
彼らの息子の一人、ラウル・オリメシャは、ポルトガル語で空中ブランコ・マニュアルを書いた最初のアクロバット選手です。
カルロス・フランコ・オリメシャの死後、ラウルの弟でカルロスの息子のルイス・オリメシャがサーカス・オリメシャの経営を引き継ぎました。パウロ・ダ・ポルテーラがサーカス・オリメシャで歌う契約を結んだのも、二世であるルイスでした。
この話は歌川国貞と関係があります。いったいどんな関係があるのでしょうか?
早竹虎吉といえば、歌川の浮世絵しか記録がありません。これらの絵がなければ、曲芸師集団を創設し、やがてブラジルに移住し、パウロ・ダ・ポルテーラを歌い手として雇った日本人が誰なのか、私たちは知る由もありませんでした。
この物語は、僕がポルテーラについて綿密な歴史調査を行った結果であり、どの本、雑誌、新聞、学術書にも書かれていません。
これは、ポルテーラの人々にとっても、サンバの世界にとっても新しい物語です。
この物語は拙著『Portela e portelenses, 1940-1949、第2』巻に収録されています。
リライト:小宮