1941年のカーニバルの日、パウロ・ダ・ポルテーラはサン・パウロでラジオ番組やコンサートに参加していました。
彼と一緒にいたのは、マンゲイラの作曲家カルトーラと、エスコーラ・デ・サンバ・デ・ミン・ニンゲム・セ・レンブラのエイトール・ドス・プラゼーレスでした。リオ・デ・ジャネイロに到着した3人は、ラジオ局でインタビューを受けた後、エスコーラ・デ・サンバのパレードに参加するためにプラサ・オンゼに向かいました。 プラサ・オンゼに着くと、ポルテーラがパレードを始めたところでした。 彼はカルトーラとエイトール・ドス・プラゼーレスをポルテーラのパレードに参加させようと、パレードの中に入りました。しかし、3人はサン・パウロでの公演で着ていたエンバイシャダ・カリオカのユニフォームである白いシャツと黒いズボンを着ていました。
ポルテーラには、パウロ自身が決めた「青と白の服を着ていない人は、ポルテーラと一緒にパレードしてはいけない」というルールがありました。
そこでディレトルの一人が、ポルテーラのディレトルであるパウロはその衣装でパレードしてもいいが、カルトーラとエイトールはダメだと言いました。
当時のエスコーラは、知らない人がパレードに侵入しないように太いロープで囲まれてパレードをしていました。パウロが「友達がいないとパレードしない」と言うと、ロープは解かれ、3人はその場を去りました。
パウロは二度とポルテーラとパレードすることはなく、後に自ら作ったルールを破ったことを後悔しました。
ポルテーラは1941年から1947年まで、7回連続でパレードを制しました。今日に至るまで、リオのカーニバルでの7連続優勝の称号を持つのはポルテーラだけです。すべてのタイトルはパウロ・ダ・ポルテーラ抜きで獲得したものです。
パウロは1941年と1942年にもエスコーラのカーニバル後のイベントに参加しています。しかしその後、彼はポルテーラを去り、リラ・ド・アモールに入りました。
1945年、パウロ・ダ・ポルテーラは、1927年に作曲したサンバ「Desprezo」の歌詞を作り直しました。それは1941年のカーニバルで起こった出来事に対しての、パウロの悩みや後悔を表したものでした。このサンバでは、軽蔑は危険な武器であり、血を流さずに傷つけ、感情なしに殺すと歌っています。
この曲は「Arma perigosa」と名を変え、コンチネンタルのRPM78レコード(SP盤)にリンダ・ホドリゲスの声で録音されています。
パウロ・ダ・ポルテーラがポルテーラを辞めた話は誰もが知っていますが、僕がサンバの曲の最後の部分を初めて見つけました。
テキスト:簀戸マルセロ
リライト:小宮